感謝の頻度

引っ越しをして3ヶ月経った。新しい街にも慣れてきて、便利や不便のあれこれがわかった頃ふと思う。最近感謝が足りないかも。

 

前に住んでた場所は近くに神社があって、散歩がてらに行くことができた。三ヶ所あったので、その時の気分や空いている時間に合わせて選んでいた。

 

新しい場所にも神社はあるが、微妙な距離なので、引っ越し直後に二、三回行ったきりである。

 

神社に行くと無条件に感謝の気持ちがわいてくる。その時がどんな状況であれ、『とりあえずこうやって生きていられます、ありがとう』くらいのセリフが勝手に口をつくのです。

 

少なくとも週に一回は行っていたので、定期的に感謝を捧げるベースができていました。それがなくなったので、最近は感謝が足りないと思ったのでしょう。

 

いろいろ考えていたら、毎日の食事を忘れていたことに気づきました。そうだこれだ!と膝を打ちました。

 

働いてお金を稼ぎ、たくさんの選択肢の中から自分の好きなものを美味しく食べられる環境。

 

これこそ感謝すべきベースにぴったりだと思います。

 

子どもの頃は『いただきます』と必ず言ってたのに、大人になるにつれ言う頻度は少なくなる。それが恥ずかしさによるものか別の理由かはわからないけれど、とにかく言う回数は減っているのだから、それを元に戻すこと。

 

人前で言うのが難しいければ心の中で言えばいい。

 

『今日こうやって食事ができることに感謝いたします。』

 

このセリフとともに、気持ちも込めて感謝をする。

 

感謝は陽の感情で、怒りや不安は負の感情だから、感謝が足りないと攻撃的になってしまいがち。

 

それを防ぐためにも、小さな感謝でいいので、たくさんしていくこと。それが大切だと思いました。

 

自分を作る習慣

外側の変化で刺激を求めたくなる気持ちをぐっとこらえて、『大切なことはルーティーンにある』という事実を学びとること。

(松浦弥太郎『幸せをうむ小さな種』)

 

断捨離をしてからというもの、今までほとんどしなかった掃除をするようになり、使った物はを所定の位置に戻すようになった。

 

物が減ったため床面積は広がり、掃除もすぐ済むのですぐに習慣になり、室内でもテキパキと動くことができている。

 

すっきりとした室内を見るのは気持ちいい。この流れを崩さないように、いつも気に留めていようと思った。

 

それからしばらく経つと、このルーティーンが心地よいと思い始めた。習慣化しているので作業もスムーズだ。『いつもの流れで室内を動いているだけで部屋がきれいになった』体験は断捨離の賜物で、今までに味わったことのない感覚だ。とても気持ちいい。

 

掃除を始めとしたルーティーンが日常の中に増えていく。今までルーティーンワークなんて大嫌いだったが、『100%自分のためになる』このルーティーンを歓迎したい。

 

毎日の食事や運動が肉体を変化させていくように、日々のルーティーンがしなやかな心を作っていく。

 

さあ今日もサクッと掃除を済ませて、清々しい気持ちで1日を始めよう。

 

 

しあわせを生む小さな種 今日のベリーグッド

しあわせを生む小さな種 今日のベリーグッド

 

 

 

My Favorite Things【1】ドライフラワー

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 好きなものは多々あれど、そのひとつひとつについて真剣に考えたことは今までなかった気がします。

 

断捨離をしてからというもの、残った物への愛着が深くなりました。

 

10年単位で愛用している物もあるし、同じものを買い直して使っていたりもする。長年の相棒のようなアイテムたちを紹介してみたくなりました。

 

また、物だけではなく、環境や食事、考え方など、今の自分を構成しているものの源泉をたどりたいという気持ちもあります。

 

ゆるゆると買いていきますので、最後までお付き合いいただければ嬉しいです。

 

 

枯れてもなお美しく

ドライフラワーの魅力はこれにつきますね。文字通り、『もうひと花咲かせる』みたいな。二度目の開花が永遠に残り、その印象を固定させる。何だか人の終わりと似ています。

 

40歳を越えてから花に興味を持ち、常に飾っておくようになりました。

 

枯れては新しい花を飾るの繰り返しで、行きつけの花屋がその時おすすめしてるものを買っていました。

 

花が一輪あるだけでも部屋の印象が変わります。特に好きだったのが大輪の百合。徐々に開いていく過程そのものがセクシーで女性的。買う頻度が最も多かったです。

 

 

時間を止める

一年くらい前にドライフラワーの存在を知りました。その時は何も感じず、そのまま忘れていましたが、去年引っ越しをした時にいただいたドライフラワーを室内に飾ってからというもの、一気に夢中になったのです。

 

水分の抜けた花や草木が、みずみずしく青々しい頃とは別の美しさをかもし出す。

 

そんなドライフラワーを眺めていると、時間が止まったような錯覚を覚えます。元々の半分以下に圧縮された花や、それぞれが別々の丸まりかたで複雑な印象を与える葉、枝のしなり具合など、細部をつぶさに観察したくなる。

 

 

自然が室内から伸びていく

いま住んでいる場所は小田原なのですが、窓の外には適度な自然が広がっています。

 

遠くには足柄の山々や富士山が見え、絶景とまでは言わずとも、一人暮らしを始めてから住んだ部屋の中では間違いなく一番の景色です。

 

写真には無いのですが、その窓のカーテンレールにもたくさんのドライフラワーを吊るしています。

 

ドライフラワー越しに遠くの山々を眺めていると、自然が室内に侵食してような、もしくは室内を起点にして外に自然が伸びていくような気分になります。ドライフラワーの存在感、青空、遠くの山々の力強い立体感。それらが視線の直線上に並んだ満足感は半端ないです。

 

そのおかげでしょうか、朝の清々しさも五割増しになりました。

 

どこまで増えていくのかは未知数ですが、増えるごとに違う楽しみを与えてくれそうで、日々のささやかな幸せとなっているのです。

 

 

ドライフラワー図鑑

ドライフラワー図鑑

 

 

 

されるよりするほうを

ぼくの仕事は俳優だから、よくひとから拍手される。でも、拍手されるより、拍手するほうが、ずっと心がゆたかになる。

(高倉健『南極のペンギン』)

 

人の注目を浴びて喝采を得る。もしくは素晴らしい出来事に対して喝采を送る。

 

賛辞を送る側にも、それを受け取る側にも、混じり気のない感謝がある。

 

拍手を感謝と置き換えれば、有名人でもない自分にもその真意がよくわかる。

 

たくさんの感謝を集めるよりも、たくさんの感謝をする側に立ちたい。そしてそれは自分の心がけ次第で、いくらでも頻度が増やせる。

 

感謝してる時って間違いなく幸せだ。

 

たくさんの拍手を、感謝を、幸せだというメッセージを、自分から発信していきたい。

 

人生のシンプルな骨組みはここにある。

 

 

少年時代

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あなたに褒められたくて (集英社文庫)

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南極のペンギン (集英社文庫)

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『どうにもならないこと』と『どうにかなること』

不幸な家庭環境で育ったということは『どうにもならないこと』です。それを嘆いていてもしょうがありません。

でも、だから自分に自信がなく、自分を愛することができず、自分を否定してしまうことは、『どうにもならないこと』ではありません。

それは『どうにかなること』です。

(鴻上尚史『幸福のレッスン』)

 

僕はずっと自分の家族を恨んで生きていました。

 

自分を捨てて家を出ていった母親、引き取ったにもかかわらず自分で育てられず、結果放置した父親、その両方を恨んで大人になりました。

 

大人になってからは父親とも疎遠になり、その行方は祖母が入る不確定な情報から、その断片を知るのみでした。

 

僕は18歳で家を出ましたが、それまでに何人もの『新しいお母さん』を紹介されました。

 

当時は祖母が僕の面倒を見てくれていて、祖母と叔母さん、そして一つ下の弟の4人で暮らしていました。

 

新しい母親ができたのなら、普通は僕ら2人を引き取り、新しい家族として一緒に生活を始めるはずです。

 

しかし父親はそうしませんでした。紹介だけしたらまた去っていきました。名ばかりの母親は、授業参観にも来ず、年末年始にもいない、幻の母親でした。

 

2人、3人、4人と新しい母親は増えていきました。最終的に父親は誰ともうまくいかず、現在は結果1人で、かろうじて生きています。

 

数年前に老いた父親と会う機会がありました。年始に実家に帰ろうとしたら、父親も帰省していたのです。

 

駅まで迎えに父親はあきらかに酔っていました。幼い頃に、酔ったアル中の父親がビール瓶を投げた光景が蘇り、一瞬だけあの恐怖感を覚えた気がしますが、気づけば僕は怒鳴り散らしていました。

 

みすぼらしい格好で、呂律も回らず、据わった眼で気持ち悪い笑みを浮かべながらヘラヘラと近づいてきた父親がどうしても許せず、突発的に怒りをブチまけたのです。

 

父親は謝ることもせず、『勝手にしろ』とだけ言い、引き返していきました。その後なんども祖母や叔母さんから連絡がきましたが、ついに戻ることはせず、そのまま帰りました。悔しくて泣きそうでした。『またあいつが全てをぶち壊した。』僕の恨みは強化されました。

 

怒りも恨みも、結果世界にはね返され、自分がダメージを食らう。当時そんなことを知らなかった自分は、徹底的に自分を傷つけていたのです。傷つけられた自分が得た正当な怒りが自分をも傷つけるなんて、何て理不尽なのだろう。そんなふうにも思いますが、『起こった出来事に対して、どこまで許せるか』が生きることの真実なのかもしれません。

 

それから数年経って、人の悩みを聞く仕事を始め、その過程で昔勉強していた心理学を学び直し、コーチングのスキルも身につけ、スピリチュアルの世界に片足を突っ込みました。

 

そんな中でわかったことがありました。それは『父親の人生と僕の人生を分けてもいい』ということ。家族でありながらも、別々。父親の人生は父親のもので、僕の人生は僕のものだから、一切口を出させないし翻弄されない。

 

家族という強固な血の繋がりは強迫観念となり、僕の潜在意識に刷り込まれていました。その呪縛に亀裂が入ったのです。

 

それからは少しづつ、父親と母親について思いを巡らす機会が増えていきました。父親の『ち』の字も想像したくなかったのにです。

 

なぜ母親は僕を捨てたのか、どうして父親は、新しい家族で新しい生活を始めなかったのか。

 

未だに完全な結論は出ていませんが、分けて考えることで、『彼らには彼らなりの理由があったのだろう』というところまで受け入れることができました。

 

自分の人生を振り返ってみても、止むに止まれずとった行動が誰かを傷つけることもあったでしょう。安易な考えで言ったセリフで取り返しのつかないことになったり、間違った選択をしたせいで自爆したりもあったと思います。つまりは人間は誰しもが失敗するのです。それが自分の父親や母親であっても。

 

『どうにもならないこと』は誰にでも降ってきます。しかしその大きなダメージの中にも、『どうにかなること』の種は潜んでいます。そこを丁寧に探っていくことで、やがては相手も自分も許せるようになり、傷つくこと、傷つけることの拡大被害を防げるのだろう。そう今は確信しているのです。

 

 

幸福のレッスン

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あなたの魅力を演出するちょっとしたヒント (講談社文庫)

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コミュニケイションのレッスン (だいわ文庫)

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うまくいかないのはあくまで一時的なもの

普段は別に普通だったじゃん。ここ最近のことを自分の全体に当てはめちゃダメだと思うよ。

(舞城王太郎『やさしナリン』)

 

小さな事から大きなものまで、人生には山も谷もあり、誰もがそのアップダウンに四苦八苦している。

 

ずっとうまく行けばいいのになと思えど、決してそんなことはなく、気づけばまた山の上か谷底に自分の姿を見ることになる。

 

相談にのっていてよくあるのが、一時的な谷に全てを持っていかれるパターンだ。

 

『過去にも似たようなことがあったけど、何とか抜け出せたじゃん?』と事実を伝えても無駄なことが多い。

 

『でもダメ今回は、どうにもならない、やっぱり私なんてこういう運命なんだわ!』とマイナス方向に反論してくる。その勢いと比喩の豊かさに驚くばかりだ。よくもここまで自分をこき下ろすことができるなと感心する。

 

時期的な浮き沈みは誰にもあるが、それは文字通り『一時的』であることがその当事者には想像できない。

 

『やっぱり自分には不幸しかないんだ!』という圧倒的な宣言は、ダメで当然という安心感を生み出すからだ。

 

うまくいかない時は、なるべく自分を客観的に見ることが大事。

 

ましてやそのうまくいってない自分が本来の自分だなんて思う必要は全くない。

 

辛い中で自分を客観的に見ることは難しいけれど、自分にとっての良いことばかりを想像すると早く抜け出せます。

 

あくまで『一時的』。それを忘れないようにしましょうね。

 

 

 

キミトピア

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好き好き大好き超愛してる。 (講談社文庫)

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淵の王

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気持ちをこめる

『いってらっしゃい』という言葉には、本来『気をつけて行って、戻ってらっしゃいね』という気持ちがこもっていますね。

気が通った状態で声をかければ、子どもの潜在意識にも『行って、帰ってくる』という気持ちが入るんです。

ところが気を通わせずに、ただ『行きなさい』『出かけなさい』という言葉として発してしまうとマイナスの言葉になるんです。

(藤平信一『無意識の整え方』より)

 

普段、何気なく口にしている言葉。

 

言葉を発するとき、自分はどれだけの気持ちをこめてそれを言っているのだろう。

 

あらゆるシチュエーションにおいて、それはただ空気の振動が音声となり相手に届いているだけ、ということも多いはずだ。

 

軽く、適当に、流すような感じで、時には相手の顔すら見ず、ながらで発した言葉はどんな印象を相手に植えつけるのだろう。

 

表情、仕草、言葉使いなどが醸し出す、その人の雰囲気。

 

きちんと気持ちをこめる。それがちゃんと相手に向いている。

 

こんな基本的なことを忘れていたなと再確認しました。

 

本書は無意識にまつわる対談集ですが、かなり応用範囲が広い対話が繰り広げられています。

 

折にふれて読み直したい一冊でした。