人間の羽

ただでさえ美しい鳥が羽を広げて飛び立つ。


隠れていた色彩の面積が一気に広がって、得も言われぬ美しさを放つ。


美しさを振りまきながら風に乗り飛ぶ鳥。永遠に眺めていたいとすら思ってしまう。


ところで人の羽はどこにあるのだろう?


元々の美貌?身につけているアイテム?視覚で処理できる情報?


それだけではなさそうだ。


そして人がその羽を広げた状態とはどんなものだろう?


それは外に向かって自分のこころが開かれていることではないだろうか。


感情に蓋をせず、余計な我慢もせず、自分の好きを基準に振る舞うこと。


そんなことできるわけがない。


自分を解放するのが怖い人々はそう言う。


自分の好きにしたら誰かの迷惑になる。そんなことを言う人もいる。


しかしそれはその人たちに勇気が無いだけだ。


私は目の前の人を納得させるだけの自分を持ち合わせてない。だから控えめに振舞っています。我慢も少ししています。自分を抑えて合わせてもいます。それが普通じゃないですか?


TPOをわきまえるべきシチュエーションなら話はわかるよ。


でも、そうでない場所や日常の中でも、『人に合わせる』がベースになるのはどうだろう?


嫌われたり疎ましがられたり空気が読めないと弾かれたり…


実際そうなったら辛いのはわかる。


一瞬萎えるよね、生命力の大黒柱が。


ただよく考えてみてほしい。


人類の全てに好かれることは無理なのだ。


そのうちの何割かは理由なくあなたを嫌うだろう。


だから他人をそこまで気にする必要はない。


自分のしたいように、話したいことを、伝えたいことを、丁寧に表現していけばいい。


表現されないことはもちろん伝わらないのだ。


だから恐がることはない。


なるべく多くの自分を、なるべく多くの人に表現していこう。


それがいい具合に伝われば、あなたという色彩がグラデーションに広がって人を魅了するだろう。


人間の羽は感情であり言葉だ。


どんどん広げて、これから出会うはずの誰かに見せる準備をすればいい。


羽を広げなければ空を飛ぶことはできない。


押し殺すのはもうやめよう。

こころを内観して、記憶の改ざんを正していく。

・最近お通じの調子がよくないな、食物繊維とろうっと。

・この椅子ガタガタするぞ、ネジを締め直さなきゃな。

・エアコンの効きが悪いね、フィルター詰まってんじゃない?


などなど、元の状態から悪い状態に変化する時には、何らかの症状が現れます。


症状が現れるからこそ僕らはそれに対して処置を施すことができる。


同じように、自分の心について考えるとき、こんなにはっきりとした症状となって現れることは、実は少ない。


イライラするからストレスを減らすために温泉いこう!!とか、辛くてお酒ばっかり飲んじゃうから、来週の休みはスポーツして発散しよう。なんてことくらいしか浮かばない。


原因が症状となって現れるパターンが、心の場合極端に少ないのだ。というか気づきにくい。


ならばどうやって判断するの?言葉にならないから疑問として浮かばないんだよー。なんて言われそうだがその通りだ。


心の傾きは症状として現れにくいし、言葉としても浮かびにくいのだ。


なので心をメンテナンスするには、定期的に、自分から見つけに行かないとダメなのだ。

 


✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎
人間は過去の記憶を改ざんして、自分の都合のいいように編集してしまう。


実際には起こってない、勝手に編集した記憶が積み重なると、大体の人が苦しくなってくる。


本来怒るべきでない時に怒ってしまったり、普段なら言わない一言がつい口をついてでたり、こんなの自分じゃないよー、という症状が飛び出てくるのだ。


それが無意識に起こるからまた厄介。自分で気づけない。重い症状になって初めて外に飛び出してくるからびっくりする。


だからガン細胞のように増殖する前に、取り除くことが必要なのだ。


俗に『内観』と呼ばれるが、自分の心の中を覗き込むということです。


心を覗いて、分析して、正しい記憶に修正し、記憶し直す作業。心の整理整頓。


じゃあどうやってやるのさ?いきなり覗き込めってったて無理だよ。


確かにそう。やり慣れてないと最初は戸惑うかもしれません。


僕が提案したいのは、『怒り』や『悲しみ』を覚えた後にやること。


両方とも強い感情でわかりやすい。そして間違った記憶に結びつきやすいというのが理由です。

 


✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎
まずは『怒り』

 

例えば会社のグループミーティングで上司が言った一言に腹が立って一向に収まらない時。実は上司は他の人に向けて言った言葉だったにも関わらず、それが自分だけに向けられた言葉として認識したあなたが、勝手に怒りを増殖させただけ、という場合。

 


なぜ自分はあんなに怒ったのだ?

いつまで経っても成長しないと言われたからだ。

あれ?先月も同じこと言われたけど、今日ほど怒らなかったな。じゃあなんでだ?

思い出した!!先週のデートの時に、彼女から似た台詞を言われたからだ。

自分がいちばん言われたくない『成長しない』というセリフを、短期間に2回言われたと早とちりしたのだ。

現に部長は、俺ではなくて、あいつに向けて言っていたのかも知れない。先週喫煙所で雑談してた時、そう言ってたじゃないか!何で俺忘れてたんだ?

そうか、彼女にだけは言われたくなかったんだ。だから傷ついていたんだ。

傷ついた自分を認めたくなくて押し殺していたんだ。

だから自分に向けられていない言葉を先取りして、『怒り』という表現で感情をむき出しにして誤魔化そうとしたのか!

そうか、ならば彼女に対して、実はあの時傷ついたと伝えてみようか?

実は彼女もまたその言葉通りの意味で言ったんじゃないかもしれないぞ。

OKわかった。まず上司に謝って、あいつのことなら逆に相談に乗ってあげよう。そして彼女には来週伝えてみよう。違う意味だった場合は、今度は簡単に傷つかないようにして、正確に意味を聞き出そう。

 

 

どうでしょう。内観しなければ、単なる怒りとして記憶されたままです。しかも勘違いもあるから、その後のコミュニケーションにも影響がある。


自分の感情を正しく記憶することはとても大切で、それには後から内観するしかないのです。

 


✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎
では悲しみの場合。

 

ずっと仲のよかった恋人が、急に連絡の頻度が減った。会える頻度も減って、少しよそよそしくなってきた。あたし嫌われた?別の彼女ができた?振られちゃうの?そんなの無理、悲しい。

 

このまま悲しみに閉じこもっていたら、彼に対する猜疑心ばかりが膨らんでいく。猜疑心は怒りと仲がいいから、このまま大ゲンカになるケースも多い。

 

 

どうして彼は連絡くれなくなったの?

いままでこういうことはなかったな。じゃあ理由があるのかな?

直接聞いてみようか?いや前に聞いたら何かごちゃごちゃ言っててわからなかった。でも…仕事が忙しいとか言ってた…かな。

連絡だけでもくれればいいのに。そうすればこんなに疑うこともないんだけどな。

あれ?そっか、あたし心配なんだ、連絡取れないだけで。いままでこんなことなかったから初めての感情なんだ。心配っていうか不安なんだ。そうか。

じゃあそれを伝えようかしら?連絡ないと不安になるからって。うん、そうしよう。

TEL…♫

あ、もしもし、ちょっと伝えたいことがあって… あたし、連絡が少ないと不安になっちゃうの。だから連絡だけはいままでみたいに欲しいの、ダメ?

えっ…

バイトしてんの?そんなの知らない…何で教えてくれないの?何か秘密でもあるの?もうわけわかんない、何よもう!!

うそ?…あたしの…誕生日…プレゼント。

そうなの?あたしが欲しがってたから…

ああ…何であたしったらすぐ疑ってしまったんだろう。そうか、それは秘密にするよね…

ごめんなさい。そしてありがとう。サプライズにはならないけど…。うん、本当にゴメンね。大好き。疑ってごめんなさい。もう大丈夫だから。

 

 

特に『不安』の感情は変幻自在。怒りや嫉妬、猜疑心にあっけなく変わってしまう。


彼女は『悲しい』と思っていた。でもその根っこには『不安』だった。


『悲しい』は意味の範囲が広すぎる。様々な要素が重なりあっているから。


それに対して『不安』であれば、まだ範囲は狭い。不安要素が解決さえできれば、不安な気持ちは和らぐから。


こちらの例は、記憶の改ざんが大げさに作用した例ですね。


✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎
上の例えは両方とも極端ですが、実は僕の体験談です。もう昔の話。恥ずかしいけど。


歳をとればとるほど、自分で蓄積してきた『考え方のクセ』が間違った記憶に加担してしまう。


内観することで、事実を知ると同時に、その自分のクセも修正できます。


それになれてくると、自分の負のブロックを外しやすくなる。


内観している時に閃くのです。あれ?これが原因じゃね?


マジかーーーっ!!


となります。


自分の心をメンテナンスすることは、直近の未来を豊かにすることです。


自分を真剣に気にかけて、自分から話を聞きに行く。


何だか言葉がおかしいけど、そういうことなのです。


心を内観して性格美人になって下さいね。

許すことが自由への近道

日々わきおこってくる様々な感情。


怒り、悲しみ、喜び、寂しさ、絶望…


その度に僕らは一喜一憂し、こころも、からだも、常にその『一部分をもっていかれる』 感じがする。


ネガティブな感情になるきっかけは大抵、人と関わることでやってくる場合が多い。


『あの人が謝ってくれさえすれば、許してあげるのに…そうすればこのモヤモヤは消えるのに…』僕自身も何度となく呟いた経験がある。


しかし待てど暮らせど、その機会はやってこないことが多い。


仮にやってくるとしても、自分が想定した期間内ではなく、『その予想を過ぎてから』謝られる場合が多数だ。


その間こちらは、日にちが経てばその濃度は薄くなってくるにせよ、イライラが続く。不健康きわまりないのだ。


電気のスイッチを切るように、いま抱えている嫌な感情をパチっと切断してしまえばどんなに楽なことか。


ネガティブな感情に終止符を打つためには、原因となる人を許すことしかない。


相手が謝ってくる前に、もう許してしまう。


自分に怒っている場合も同じこと。


ダメだダメだ!と否定するのではなく、とりあえずそんな自分も許してしまう。


自分が『選択権』を持つことで、自分には自由が宿る。


相手が謝ってくるのを待つ行為は、相手にその選択権を明け渡していることと同じ。


それではいつまでたっても自由になれない。


だからその原因になった人物に対しては、『積極的に許すこと』が一番の特効薬である。


そして僕が推奨している『ホ・オポノポノ』


ごめんなさい

許してください

ありがとうございます

愛しています


この4つのワードが意味すること。


僕はきちんと『謝ることができる人間』であり、『許してもらえる存在』である。そして『お礼を伝えられる』人物であり、『自発的に人を愛することの包容力を持っている人間』なのです。という宣言だ。


それを毎度、感情がブレたときには必ず唱えている。


これはかなり有利なアファメーションになる。潜在意識にどんどん言い聞かせて、顕在的にも意識することによってダブルの効果を発揮するのだ。


自分の感情に乱されがちな方は、まずは『許すこと』そして自分はどんな人間なのか?という宣言を絶えずしていくことで、感情に翻弄される頻度は激減していきます。


自分の人生だからね、人に委ねるのはもったいないですよ。

 

ハワイに伝わる癒しの秘法 みんなが幸せになるホ・オポノポノ 神聖なる知能が導く、心の平和のための苦悩の手放し方

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光の射し込む場所に留まって

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大変なこと、辛いこと。誰もが多かれ少なかれ抱えている。


それでも時に笑顔で、ひとりの時には泣いたりして、何とかバランスをとっている人もいるかもしれない。


『喜びは最大限に、悲しみは最小限に』


そうできたら楽だけど、どうしたって自分の思うようにはいかないのが人生だ。


断捨離してから、『シンプルでありたい』と強く思うようになった。


シンプルって言葉は便利でよく使うが、その中身に関しては意外と真剣に考えていなかったことに気づいた。


モノを持たないことがひとつ。これは断捨離による効果。


そしてもうひとつをウンウン唸りながら考えたあげく出てきた答えは、どんな状況・環境にあっても『光の差し込む場所に留まろう』ということだった。


これは、物事のマイナス面ではなくプラスを見て行くという決意だったり、

悲しみに暮れている人に対して、暖かい場所を用意したいという想いであったり、

人生にはどうしても悲しみや辛さを感じる瞬間がある。ならばそうなった時にはなるべく早く、日なたを探して自分を立て直そう。自然の光に自分の辛さを軽減してもらおう。そんな気持ちもある。


そしてできることならば、自分のこころの中に、たとえ小さくてもいいから、太陽のを宿していたい。


暖かさ、強い光。陽射しには未来がある。眩しくて先が見えないけど、確実に天に向かって真っ直ぐに延びたレールだ。


そのスタートラインは世界のどこにだってある。いま目の前にも。


とにかく探してその側に留まろう。


写真は安藤忠雄光の教会』から借りました。


決まった時間になると建物に光が差し込む。だからその時間に集まって礼拝を行う。


なんて素晴らしいコンセプト。


人は光に導かれていくのだ。


幸福を目指して。

光の教会―安藤忠雄の現場

光の教会―安藤忠雄の現場

 



偶然が入りこむ余地を

何回も同じ人生を生き直せれば、統計学的には利益の大きい計画は立てられるけれど、「一度きりの人生」においては、ちょっとした偶然で簡単に計画が吹っ飛んでしまう。(東浩紀)


人生全般においては、仕事の細かい詰めとは違って、『偶然』を取り込んで味方につけるほうがより大切だと思う。


一週間後の自分のコンディション(体調や感情面も含め)が今の感じの延長線上にあるなんて誰にもわからない。


ならば、いい偶然が起こって、その時の自分が楽しめている景色を想像していたほうがより健康的だ。


『〜ねばならない』という断定をすることは、この仕事をやっていたら必要なことだけど、

それはごく一部であって全体ではないのだ。


偶然や想定外を愛していると、自分の振り幅が広がります。


こと人においては、『自分のこんな性格を受け入れてくれる人なんて少ないだろうな…』


という予想は大きく覆されて、『こんな自分を面白いと思ってくれる人が「こんなにたくさん」いるんだ!』ということに直面するはずです。


計画はものすごく大事ですが、計画しなくてもいいことまで計画してしまうとそれに縛られてしまって、心の筋肉が縮こまる。


可能性のほとんどは、自分の実力が導くものではなく、『誰かが発見してくれたからこそ起きるもの』です。


もちろんその実力が誰かを刺激したから知れ渡るということもあります。


いずれにせよ、他人が関与していることに変わりはない。


よく開放感という言葉が使われますが、開放的ということは、文字通り『心の扉を開く』こと。


すなわち、『受け入れる姿勢』で自分が在るということ。


ガチガチに計画ばかりしていては、順序を守り業務を遂行することばかりに心のベクトルが向い、『偶然を受け入れる余地がなくなる』のです。

 

ザックリと枠を作っておく。あとは天に任せてみる。

 

心の振り幅が引き寄せる偶然を信じてみようじゃありませんか。

老いを否定する

紅葉の季節になった。木の葉の色づきを眼にしてもなんの感慨もおぼえない、ずっとそんな秋だったのに、年嵩が増してくるにつれて、ふと道端に落ちた枯れ葉を部屋にもって帰るというようなこともするようになった。『朱』に魅かれるじぶんがいる。(鷲田清一『噛みきれない想い』)

 

先日、海辺に散歩した時にたくさんの枯れ葉が落ちて積もっていた。

 

『もう秋だよねー』などと会話しながら思うのは、どうして自分はこんな枯れ葉に心奪われているのかな?ということだ。

 

『歳とったからだよね、やっぱり』というセリフが落とし所で、事実そう言った気がする。

 

しかしその後が違った。一枚をふわりとつまみ上げ、しげしげとその佇まいを眺めて感慨に耽る、というようなことはしなかった。いきなり『クシャクシャッ』と枯れ葉の山を踏みしめて、その音を楽しみ始めたのだ。気づいたらそうしていたのだが、あまりにも意外な行動で驚いた。

 

細かく踏みしだかれた枯れ葉を尻目に、『いま一瞬、子ども心がやってきたかも』と思った。枯れ葉に反応したのは老齢に差し掛かった自分で、それを壊したのは子どもの自分。過去と未来が一直線上につながって、複数の自分を感じたのだ。一つの肉体に二人の自分が同時に宿ること。

 

それがあまりに新鮮で、その後もずっと考えている。なぜ自分は枯れ葉を手にとり眺めることをしなかったのか。

 

もしかしたら無意識に、老いを否定するアクションをとったのではないか。

 

だとしたら自分は老いることに反発しているのかもしれない。そう思った。

 

いずれにせよ、自分の中の子どもを確認したが、それは悪い気はしなかった。

 

次回はいつ顔を出すのだろう。そしてどんな行動をとるのか。

 

自分のことながら、それを楽しみにしている。

 

噛みきれない想い

噛みきれない想い

 

 

 

 

 

 

 

強すぎる欲望は是か?

スピリチュアルの世界を知ってからというもの、オポノポノを経由して、潜在意識、アファメーショングラウンディング


いろんな価値観を取り入れて実行してきました。


そのおかげで、現在はうまくバランスがとれている。


怒りを手放したのがいちばんの効果で、そこから道がスルスルと開けてきました。


必要なものが手に入ったり、望んでいた環境のほうへ『流されていったり』、人と深いコミュニケーションがとれて、大切な人と出会えたり。


スピリチュアルの世界を知る前と後では、生きることに対する姿勢がまるっと変わったのです。


その過程で様々な人と出会いました。同じようにスピリチュアルの世界に興味がある人や、どっぷり浸かっている人、本当にたくさんの人がいた。


自分の欲望を叶えるために、もしくは抱えている苦痛を無くすために、スピリチュアルの世界を取り入れる人が多いし、僕も最初はそうでした。


そんな、様々な方と触れ合う中で思ったことがあります。


それは、あまりに強すぎる欲望を抱えている人や、助けて救って連れてってMAXな方々は、比較的ジプシーになりやすいのかなと。占いも含めて。


自分で体現し、勉強する過程でわかってきたのは、スピリチュアルに深く関わることには、実は資格のようなものがいるのではないかということです。


資格といっても、現世の物理的なものではなく、『どれぐらい清い存在であるか』という感じです。


スピリチュアルの世界では、念とかエネルギーとか、今までは迷信の範疇にあったことを、すごく意識するようになります。


僕の場合は、一時期、第六感が冴えまくって、様々なことを言い当てることができました。


自分の深い部分にアプローチし、潜在意識にアクセスし、その深度で自分との対話ん繰り返していると、世界に対してビビッドに反応する自分ができてくる。


その感覚で現実を過ごすと、何かの現象が起こるまえに反応できるようになる。虫の知らせみたいな感じです。


なので、それを突き詰めていくことは、実は危険な領域に足を踏み入れることにつながるのではないか?そう思いました。


だからこそ、そのある種危険な領域にいくには、自分自身がどこまで清い存在であれるか、が大事な気がするのです。そうしないと惑わされたり壊されてしまったりしそうだから。


なので、そんな資格がいるところに、我欲全開で突進してくる、助けてオーラ満載で着飾ってくるというのは、清い存在からは程遠い。


とするならば、様々なところを渡り歩いて、次から次へとセッションを受けても、自分自身が清い存在に近づけない限り、現実は変わらないと思うのです。


つまり、どんな手法を使ったとしても、深く自分を知ることが1番大切で、そのためには、ある程度トーンダウンしながら、ゆっくり自分を紐解いていく、という感覚が必要なのでしょう。


僕自身も日々戒めています。我欲が強すぎないか?と。


欲望自体は悪くない、というかむしろ必要です。


人生はそれを満たすことで有意義になっていくのですから。


過剰であることが、実は自分自身を見えなくしている。


最近、雑然とそんなことを考えているので、メモ代わりに投稿しました。


このテーマに関して、さらに突っ込んで、より深く考えてみようと思います。