信じようと信じまいと効果はあるのだ

最近、あれだけ効果のあったホ・オポノポノをさぼっていた。


さぼっていたというよりかは、それを唱える困ったシチュエーションに遭遇しなかったので忘れていたのだ。


久しぶりに本棚の整理をした時にこちらの本が見つかったので思い出した次第。

 
僕の場合は1ヶ月くらいで効果があらわれ始め、3カ月目には確実に実感レベルまできた。


日々のトリートメントとしてまた始めてみようと思う。


オポノポノの良いところは、信じていなくても効果が出るということ。やればいいだけ。


人によって様々な表現はあるけれど、僕の場合は、

「心の淀んだ沼にどんどん真水を注がれていく感じ」

がしました。


だから今では相当澄んだ、沼というよりは湖という実感があります。


これからさらにどう変化していくのか楽しみ。


ということで、


ごめんなさい

ゆるしてください

ありがとうございます

愛しています

 

ハワイに伝わる癒しの秘法 みんなが幸せになるホ・オポノポノ 神聖なる知能が導く、心の平和のための苦悩の手放し方

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もっと優しくさわってよ!!

ドカン!!


まるで震度5の地震が来たような衝撃。


ハッと目を開ければ何てことはない、電車に揺られる座席の横にオッサンが座っただけだった。


以前の自分ならば、怒り心頭、心の中では「このボケ!カス!ハゲ!」と悪態の三段活用がすぐさま飛び出したことだろう。


しかし今ではその公式なんて忘れてしまった。


代わりに思ったことは、「あんた奥さんにもそんなガサツな態度で接してないかい?」ということ。公共の場でそんな振る舞いをするんなら、家ではもっと気を抜いちゃってるよね。


オッサンの指にめり込んだ結婚指輪を見ながらそんなことを思う。


同じように、駅の改札を抜ける際に、パスケースや財布を思い切り叩きつけるように通っていく人もよく見かける。


何かに苛立っているのか、それとも加減がわからないだけか。


その雑さで扱われた人、物、そして自分。


もしも世界が自分を映す鏡なら、そんな態度で過ごす日々は、知らぬ間に自分で自分を雑に扱い、また人からも雑に扱われる可能性も高いよね。


そんな街の風景。

あなたの魅力はたくさんの花びらのようだ

さっき花の水を変える時に、もうすぐ花開く蕾を見つけました。百合の花です。


今までは、咲いた花は見ていたけど、どうやって咲くのかは気にしていませんでした。


常識なのかもしれないけれど、これがかなりドラマチック。


まずは蕾が膨らんで、中の花びらが外の花びらを押し出すようにして裂け目ができる。


そして膨らみきったところで、ストッパーのようになっていたてっぺんが裂け、まるでフィギュアのイナバウアーみたいに、花は優雅に反り返っていく。


そして全ての花びらが定位置まで反った時、花としての全体像が浮かび上がる。大ぶりの花だからこそ、華麗さも目立つ。


その一部始終に、なんて美しいのだろうと、感激しましたね。


蕾を人に例えれば、花びら一枚一枚は、その人の資質です。


「朗らか」「前向き」「ゆっくり話す」など、


その人のもつ資質や性格が、綺麗に花開く(きちんと外部に伝わる)ことで、全体的な花のフォルム(その人のトータル的な印象)が見えてくる。


自分で自分の良いところを知らないと、気づかれない一部の花びらは反り返ることができず、本来ならば美しいはずのフォルムも、そう伝わらない可能性がある。


だから人の魅力は、その人が知っていようが知るまいが、とにかくどんどん伝えていこうと思った次第。


さっき自己愛についての本を読んでいたので、こんなことを思ったのだろうな。


そんな独り言です。

若さを過去に追いやって

かつて若い頃、40歳になったら人生も終わりだなと思っていた。


髪の毛は薄くなって、ファッションにも気を使わなくなり、たるんだ体で偉そうに威張り散らしているイメージがあった。


バンドをやっている時は「Don't trust anyone over 30‼︎」が合言葉だった。


結局、若くあることだけが、人生のメインストリームに立てる条件だと思っていた。


しかし年月が経ち、40代も半ばに差し掛かったいま思うのは、中年って楽しい!!ということだ。


昔の自分が見たら恥ずかしさのあまりどうにかなってしまうだろう。


しかしそれが事実だ。きちんと楽しめてる。


スイも甘いもわかるから?

経験値が上がるから?

余裕が生まれるから?


いや、そのどれとも違う。


若い頃に頑なに信じてた「メインストリームにいなきゃ意味がない」ということが、どうでもよくなったのだ。


つまり、「他人と自分とを比較して優劣をつける」ことに全く興味がなくなったと言いかえてもいい。


似合わないブランドで身を飾るキラキラ感よりも、長年使い続け、自分の分身みたいな革ジャンに袖を通していたほうが心地よい。

高層タワーマンションの展望とシャンパンの組み合わせよりも、缶ビール片手にホタルを見に散歩するほうがワクワクする。

ゴージャスで高価なシャンデリアや家具の代わりに、季節の花を丁寧に飾るほうが色彩の息吹きを感じられる。


そんなことを思うのだ。


人や世間の基準で何かを選ぶのではなく、自分の中に蓄積してきた好きなモノを優先したいということ。


地に足のついた、辺りを見渡せばどこにでもあるようなモノや出来事。


それをきちんと味わってみることに時間を使うようになった。


憧れてる歳ではもうない。


好きならそれを手にすればいい。


それがなかなか手が届かないものなら、代わりを探してサッサと味わってしまえばいい。


自分を基準にすると、駄目出しされてもめげないメンタリティーになってくる。


そして自分の中に正しさの基盤ができあがる。


この基盤の頼もしさったらないのだ。


野心がなくなったとか、枯れてきた、とは全く対局にある「自分の自由を許す自由」を高く掲げること。


それができれば中年はとても楽しい。

 

人生は加点法でいく

人生にはいろんな事が起こります。


良いことや悪いこと。

嬉しいことや悲しいこと。

楽しいことや苦しいこと。


毎日、まいにち、いろんな出来事があって、様々な感情がわき起こります。


普通は、良いことから悪いことを引いて、今の自分の状態を考えることが多いです。


昨日はあんな楽しかったのに、今日は苦しいなぁ…


面白いのは最初だけで、つまらない時間のほうが長いじゃん…


あーあ、たとえ良いことがあっても、結局はダメダメじゃないか。


そんな感じ。


しかし人生を「充実させる」ことって、良いことばかりでは成り立たない。


自分にとってよくないことを、未来も含めて、人生から一掃することは不可能だから。


ならばいっそのことこう考えてみる。


良いことも悪いことも、感情が動いたことはすべてポイントにしてしまえ。全部を加点して、その総和を「充実度」として定義すればいい。


苦しいことや、悲しいことも、人生を充実させる機会と捉えるのだ。


わざわざ怒りや悲しみに向かう必要はないけれど、闇雲にそれを恐れることもない。


全ては自分の気持ち次第。


逃れられないなら受け入れよう。


どう解釈するかで、あなたの人生はガラリと変わるはずだから。

怒りと悲鳴と

みなさま、こんにちは。


自分が怒ったり、怒られたり、または怒っている人が近くにいる時って、やけに心が痛い。


どうして神様は「怒り」という感情を人間に宿したのだろう?


ついそんなことを思ってしまう。


僕が「怒らない人」になってからもう随分経ちますが、元々がイライラしやすいタチだったので、ここまでなるのに相当な時間がかかりました。


あの頃の自分を振り返ってみると、怒りっていうのは、自分のキャパを超えて、コントロールできなくなった感情だったなと思います。


そこまで怒鳴ることないのに…


実は怒りながら自分でも気づいたりすることもありました。


しかし後には引けず、そのテンションをキープしては、ただ罵倒するのみ。


もはや怒りのきっかけなんてどうでもよく、怒り続けることに意味があるような状況になってしまう。


ある意味、感情というロボットのコックピットで、操縦不能なまま無理やり突進してるようなものです。


そしていま思うのは、そんな状態は、実は辛く苦しい。感情のはけ口なんてもってのほか、快感からは程遠い状況です。


そんなことから、怒っていることはつまるところ、「困っている」と同じではないかと思うのです。


ヒステリックな怒鳴り声は、もはや悲鳴と呼んでもいいような気さえしてきます。


怒っている人は、困り果てて、悲鳴を上げている人だ。そういう解釈もありかもしれない。


とすれば、そんな人を目の当たりにした時も、少しだけ自分から歩み寄れそうな気分にもなります。


怒りと、痛み。そして少しの同情。


怒りは、あまりよいものを生み出しはしない。


時々、反骨精神のエネルギーになるけれど。周りへの被害も大くなるというもの。


怒りを完全に手放すのは難しいかもしれないけれど、解釈を変化させるだけで、少しはマシになるかもしれないですね。


日々、心に留めておきたいものです。

未知への期待、自分への信頼、1%の勇気。

いまカウンセラーとして、いろんな方の相談にのっていること、数年前では想像もできなかった。


何がどうなって、いまこうなっているのか。


過去を思い起こしても、その道筋をたどることは不可能だ。


しかし、とある感覚を何となくだが感じている。


今の自分について、

こうなることは、何かの力でもって予め決まっていたのかもしれないということ。この感覚が50%

 

そして、様々な選択を気づかずにしながら、でも自分の足で歩いてたどり着いたような感じ。が50%


その両方を感じている。どちらも同じくらいの感覚だ。


だからだろう、僕の場合は未来に怯えることがない。


だってその半分は、想像してもわからないし、残り半分は自力で行ける可能性があるから。


そして次には、たった1%の「勇気」を自力で行けるだろうの感覚に一滴たらすのだ。


そうすれば、無理なく行動できることがわかったから。


言い換えれば、


50%の未知なる偶然と
51%の自分を信じる気持ち


その2つを携えていけば、何が起きても大丈夫だろうという感覚になる。


やはり行動を起こすための第一歩は、自分を肯定し、信頼することだから。


考え方を変えれば、大きな勇気は必要ない。


誰でもがすぐに、いまここからスタートできる可能性を100%秘めている。


それを僕は心から信じているのです。