怒りと悲鳴と

みなさま、こんにちは。


自分が怒ったり、怒られたり、または怒っている人が近くにいる時って、やけに心が痛い。


どうして神様は「怒り」という感情を人間に宿したのだろう?


ついそんなことを思ってしまう。


僕が「怒らない人」になってからもう随分経ちますが、元々がイライラしやすいタチだったので、ここまでなるのに相当な時間がかかりました。


あの頃の自分を振り返ってみると、怒りっていうのは、自分のキャパを超えて、コントロールできなくなった感情だったなと思います。


そこまで怒鳴ることないのに…


実は怒りながら自分でも気づいたりすることもありました。


しかし後には引けず、そのテンションをキープしては、ただ罵倒するのみ。


もはや怒りのきっかけなんてどうでもよく、怒り続けることに意味があるような状況になってしまう。


ある意味、感情というロボットのコックピットで、操縦不能なまま無理やり突進してるようなものです。


そしていま思うのは、そんな状態は、実は辛く苦しい。感情のはけ口なんてもってのほか、快感からは程遠い状況です。


そんなことから、怒っていることはつまるところ、「困っている」と同じではないかと思うのです。


ヒステリックな怒鳴り声は、もはや悲鳴と呼んでもいいような気さえしてきます。


怒っている人は、困り果てて、悲鳴を上げている人だ。そういう解釈もありかもしれない。


とすれば、そんな人を目の当たりにした時も、少しだけ自分から歩み寄れそうな気分にもなります。


怒りと、痛み。そして少しの同情。


怒りは、あまりよいものを生み出しはしない。


時々、反骨精神のエネルギーになるけれど。周りへの被害も大くなるというもの。


怒りを完全に手放すのは難しいかもしれないけれど、解釈を変化させるだけで、少しはマシになるかもしれないですね。


日々、心に留めておきたいものです。