嬉しさを旅に出す
人はなぜ、ここではないどこかに移動したいという衝動に襲われるのか。
(ブルース・チャトウィン)
ここではないどこかへ。それがどこなのかは皆目見当がつかないけれど、とにかくここでないことだけは確かだ。否定しろ、逃げろ、縛られたら終わりだ、飛び出せ、旅に出ろ!
そんなことをいつも思っていた20代の頃。ちょっとしたことは全て束縛だった。ルールは破るもので、唾は吐くもの。花は千切るもので、酒瓶は割るものだった。
そんな青臭さが漂うエネルギーの塊だった頃とは違って、いまはこう思う。
ここもいいし、あそこもいい。南も北もどの方角も、それぞれの場所にそれぞれの良さがある。どこに住んでも自分は自分であり、その土地と仲良くやれるだろう。
随分と柔らかくなったものだと自分でも思う。概ねこの感じ方に満足している。
ただ時々、心の奥でくすぶっている衝動を意識させられる時がある。何かがもぞもぞと蠢き、疼く。
旅行もいいが、そうではないもっと別の感覚が欲しい。後戻りしたくない感覚、新しい根を生やしてみたいという欲求を満たしたい。
そう簡単は移住はできないので、妄想レベルに留まってはいるが、この衝動は一生続くのかなと思う。
旅に出て様々な体験を重ね、ひと皮むけたり、一回り大きくなったり、時には期待を下回ってガッカリしながら、旅人は戻ってくる。目には見えない経験という宝石をポケットに詰め込んで。
自分が旅に出る、のであれば、自分の感情も一緒に旅をすることになる。悲しみも喜びも全て引き連れていくことになるはずだ。
嬉しいことがあったらそれを誰かに伝えたくなる。
自分の身に起きたこと。つい顔がほころんでしまうようなエピソード。友人知人家族、自分の近しい人が体験したいい話など、喜びは外に向かうのが常だ。
これはある意味旅に出るのと似ている。
一つの嬉しいエピソードが、人の声を介して、知らない土地へ運ばれていく。
それは誰かに作用し行動を促すかもしれない。弱った心に力を与えてくれるかもしれない。一つのエピソードは、大げさかもしれないが一個人の人格のように機能するだろう。
だから自分が感じた嬉しさをどんどん旅に出していこうと思う。怖がらず、奢らず、世界にはこんな面があるんだよと。
嬉しさで悲しみを覆い隠すのではなく、両方が存在するそのことを丁寧に伝えていくこと。
それはきっと誰かの希望を発芽させるに違いない。
- 作者: ブルース・チャトウィン,池央耿
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