『どうにもならないこと』と『どうにかなること』

不幸な家庭環境で育ったということは『どうにもならないこと』です。それを嘆いていてもしょうがありません。

でも、だから自分に自信がなく、自分を愛することができず、自分を否定してしまうことは、『どうにもならないこと』ではありません。

それは『どうにかなること』です。

(鴻上尚史『幸福のレッスン』)

 

僕はずっと自分の家族を恨んで生きていました。

 

自分を捨てて家を出ていった母親、引き取ったにもかかわらず自分で育てられず、結果放置した父親、その両方を恨んで大人になりました。

 

大人になってからは父親とも疎遠になり、その行方は祖母が入る不確定な情報から、その断片を知るのみでした。

 

僕は18歳で家を出ましたが、それまでに何人もの『新しいお母さん』を紹介されました。

 

当時は祖母が僕の面倒を見てくれていて、祖母と叔母さん、そして一つ下の弟の4人で暮らしていました。

 

新しい母親ができたのなら、普通は僕ら2人を引き取り、新しい家族として一緒に生活を始めるはずです。

 

しかし父親はそうしませんでした。紹介だけしたらまた去っていきました。名ばかりの母親は、授業参観にも来ず、年末年始にもいない、幻の母親でした。

 

2人、3人、4人と新しい母親は増えていきました。最終的に父親は誰ともうまくいかず、現在は結果1人で、かろうじて生きています。

 

数年前に老いた父親と会う機会がありました。年始に実家に帰ろうとしたら、父親も帰省していたのです。

 

駅まで迎えに父親はあきらかに酔っていました。幼い頃に、酔ったアル中の父親がビール瓶を投げた光景が蘇り、一瞬だけあの恐怖感を覚えた気がしますが、気づけば僕は怒鳴り散らしていました。

 

みすぼらしい格好で、呂律も回らず、据わった眼で気持ち悪い笑みを浮かべながらヘラヘラと近づいてきた父親がどうしても許せず、突発的に怒りをブチまけたのです。

 

父親は謝ることもせず、『勝手にしろ』とだけ言い、引き返していきました。その後なんども祖母や叔母さんから連絡がきましたが、ついに戻ることはせず、そのまま帰りました。悔しくて泣きそうでした。『またあいつが全てをぶち壊した。』僕の恨みは強化されました。

 

怒りも恨みも、結果世界にはね返され、自分がダメージを食らう。当時そんなことを知らなかった自分は、徹底的に自分を傷つけていたのです。傷つけられた自分が得た正当な怒りが自分をも傷つけるなんて、何て理不尽なのだろう。そんなふうにも思いますが、『起こった出来事に対して、どこまで許せるか』が生きることの真実なのかもしれません。

 

それから数年経って、人の悩みを聞く仕事を始め、その過程で昔勉強していた心理学を学び直し、コーチングのスキルも身につけ、スピリチュアルの世界に片足を突っ込みました。

 

そんな中でわかったことがありました。それは『父親の人生と僕の人生を分けてもいい』ということ。家族でありながらも、別々。父親の人生は父親のもので、僕の人生は僕のものだから、一切口を出させないし翻弄されない。

 

家族という強固な血の繋がりは強迫観念となり、僕の潜在意識に刷り込まれていました。その呪縛に亀裂が入ったのです。

 

それからは少しづつ、父親と母親について思いを巡らす機会が増えていきました。父親の『ち』の字も想像したくなかったのにです。

 

なぜ母親は僕を捨てたのか、どうして父親は、新しい家族で新しい生活を始めなかったのか。

 

未だに完全な結論は出ていませんが、分けて考えることで、『彼らには彼らなりの理由があったのだろう』というところまで受け入れることができました。

 

自分の人生を振り返ってみても、止むに止まれずとった行動が誰かを傷つけることもあったでしょう。安易な考えで言ったセリフで取り返しのつかないことになったり、間違った選択をしたせいで自爆したりもあったと思います。つまりは人間は誰しもが失敗するのです。それが自分の父親や母親であっても。

 

『どうにもならないこと』は誰にでも降ってきます。しかしその大きなダメージの中にも、『どうにかなること』の種は潜んでいます。そこを丁寧に探っていくことで、やがては相手も自分も許せるようになり、傷つくこと、傷つけることの拡大被害を防げるのだろう。そう今は確信しているのです。

 

 

幸福のレッスン

幸福のレッスン

 

 

 

孤独と不安のレッスン (だいわ文庫)

孤独と不安のレッスン (だいわ文庫)

 
あなたの魅力を演出するちょっとしたヒント (講談社文庫)

あなたの魅力を演出するちょっとしたヒント (講談社文庫)

 
コミュニケイションのレッスン (だいわ文庫)

コミュニケイションのレッスン (だいわ文庫)

 

 

 

 

うまくいかないのはあくまで一時的なもの

普段は別に普通だったじゃん。ここ最近のことを自分の全体に当てはめちゃダメだと思うよ。

(舞城王太郎『やさしナリン』)

 

小さな事から大きなものまで、人生には山も谷もあり、誰もがそのアップダウンに四苦八苦している。

 

ずっとうまく行けばいいのになと思えど、決してそんなことはなく、気づけばまた山の上か谷底に自分の姿を見ることになる。

 

相談にのっていてよくあるのが、一時的な谷に全てを持っていかれるパターンだ。

 

『過去にも似たようなことがあったけど、何とか抜け出せたじゃん?』と事実を伝えても無駄なことが多い。

 

『でもダメ今回は、どうにもならない、やっぱり私なんてこういう運命なんだわ!』とマイナス方向に反論してくる。その勢いと比喩の豊かさに驚くばかりだ。よくもここまで自分をこき下ろすことができるなと感心する。

 

時期的な浮き沈みは誰にもあるが、それは文字通り『一時的』であることがその当事者には想像できない。

 

『やっぱり自分には不幸しかないんだ!』という圧倒的な宣言は、ダメで当然という安心感を生み出すからだ。

 

うまくいかない時は、なるべく自分を客観的に見ることが大事。

 

ましてやそのうまくいってない自分が本来の自分だなんて思う必要は全くない。

 

辛い中で自分を客観的に見ることは難しいけれど、自分にとっての良いことばかりを想像すると早く抜け出せます。

 

あくまで『一時的』。それを忘れないようにしましょうね。

 

 

 

キミトピア

キミトピア

 

 

好き好き大好き超愛してる。 (講談社文庫)

好き好き大好き超愛してる。 (講談社文庫)

 
淵の王

淵の王

 

 

 

気持ちをこめる

『いってらっしゃい』という言葉には、本来『気をつけて行って、戻ってらっしゃいね』という気持ちがこもっていますね。

気が通った状態で声をかければ、子どもの潜在意識にも『行って、帰ってくる』という気持ちが入るんです。

ところが気を通わせずに、ただ『行きなさい』『出かけなさい』という言葉として発してしまうとマイナスの言葉になるんです。

(藤平信一『無意識の整え方』より)

 

普段、何気なく口にしている言葉。

 

言葉を発するとき、自分はどれだけの気持ちをこめてそれを言っているのだろう。

 

あらゆるシチュエーションにおいて、それはただ空気の振動が音声となり相手に届いているだけ、ということも多いはずだ。

 

軽く、適当に、流すような感じで、時には相手の顔すら見ず、ながらで発した言葉はどんな印象を相手に植えつけるのだろう。

 

表情、仕草、言葉使いなどが醸し出す、その人の雰囲気。

 

きちんと気持ちをこめる。それがちゃんと相手に向いている。

 

こんな基本的なことを忘れていたなと再確認しました。

 

本書は無意識にまつわる対談集ですが、かなり応用範囲が広い対話が繰り広げられています。

 

折にふれて読み直したい一冊でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

同じ物語を繰り返さないために

『こんな人とつきあっていても何も変わらない』と次々に友だちや恋人を変えても、あなたが変わっていなければ、登場人物が違うだけで、ふたたび同じ物語が繰り返される。

(松浦弥太郎『しあわせを生む小さな種』)

 

変わるこことってむずかしい。

 

長年の習慣、もともともっている気質、生きているうちに作り上げられていく性格…

 

それらをバシっと捨て去って、真っさらな自分に即日変わることなんてできやしない。

 

人を含めた環境の変化が、自分を変えるための近道だと言われる。新しい習慣へのスタートラインだと。僕もそう思う。

 

しかし松浦の言葉にあるように、自分が変わっていかなければ、せっかく環境を変えても物語の骨格は同じだ。

 

今までの不甲斐なさをどう変えていくのか、不幸な生い立ちからどう脱却するのか、不満足な現状をどう好転させるのか…

 

環境の変化に依存して、自ら変化することを蔑ろにしてはならないのだ。

 

確かに登場人物が変わると、物語は目新しく映る。期待値は上がり、何かいいことがあるんじゃないかと想像したりもする。それ自体はとても良いことだ。

 

しかし、自分はどう変わりたいのか、そのために何をするのか、という新しい視点がないと、物語はループする。変わってない自分ができることなんてたかが知れている。狭い範囲で、かつて体験したことと同じような道を、無意識は差し示すからだ。

 

変わりたいけど変われない。でも変わるしかない。

 

勇気をもって飛び出して初めて、新しい物語が展開されていくのだろう。

 

いつでもスタートは切れる。諦めずに一歩を踏み出そう。変化は敵ではなく、あなたの友人になり得るのだから。

 

 

しあわせを生む小さな種 今日のベリーグッド

しあわせを生む小さな種 今日のベリーグッド

 

 

 

積み減らすということ

『すべてを失ってはじめて、やりたいことをする自由を手に入れられる。』タイラー・ダーデンファイト・クラブ


『自分に何も欠けてないと知ったとき、世界はあなたとひとつになる。』(老子

 

断捨離をしてから、上の二つの言葉が身にしみてわかるようになった。


今では広告に踊らされることなく『自分に必要なモノを自分で選び』、不要なモノはどんどん処分できているからだ。


生まれてから一定の時期は、ひたすらに『積み重ねる』ことで生きていける。


モノも知識も体験も、次々と自分の内に引き入れて咀嚼し血肉化していくこと。それが人生の主流だ。


しかし40を過ぎて、ある程度の体験を重ね、必要なモノや思考を手に入れた後に思うのは、『欲望には限りがないこと』である。


エンドレス、ひたすら上昇、どんどん詰め込め。限りがないとはこういうことだ。


肉体に限界がある以上、欲望の増殖するサイクルこそに無理がある。


みなそれに気づいていながらも、欲望をコントロールできないでいる。


年齢を重ねて老いていくシルエットは、シンプルでかつスタイリッシュでいたい。


だからこそ今までの人生で『積み重ねて』きたことを今度は『積み減らして』いく必要がある。


『積み減らす』とはおかしな言葉だが、そんな人生の岐路をうまく言い現わしているなと思う。岡本太郎の言葉だ。


積んでは減らす。減らしてはまた積む。その繰り返し。


これこそが人生そのものだ。


欲望が増殖する時には、『ひたすら積む』ことにフォーカスがあたっている。


そして時々、『増えすぎたからちょっと減らそうかなぁ…』と思うくらい。


『積み減らす』はそうではない。『積む』と『減らす』が同じ割合で拮抗している。


ひとつ積んだらひとつ減らす。これをルールとしている。


だから余計に積み重なることがない。


断捨離はリセットである。


本当に必要な環境を整え、今までの自分が獲得した『ポテンシャル』を100%発揮するための儀式といってもいい。


そんな儀式をクリアしたいま、毎日が清々しい。


そして本当に自分が欲望していることは何か?もはっきりしてくる。


特に時間の使い方が変わった。『精神の不必要な寄り道』をしなくなった。


今の僕に必要なのは2点のみ。


ひとつは恋人との時間を大切にすること。


もうひとつは、悩み困っている人がいたら手を差し伸べること。


なんてシンプルなんだろう。


自分の人生に手をこまねいている方は、ぜひ断捨離してみてください。


自分の『端切れ』を一掃することで見えてくる景色は本当に素晴らしいですから。

 

強く生きる言葉

強く生きる言葉

 
壁を破る言葉

壁を破る言葉

 

 

 

自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間

自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間"を捨てられるか (青春文庫)

 
愛する言葉

愛する言葉

 
青春ピカソ (新潮文庫)

青春ピカソ (新潮文庫)

 
美しく怒れ (角川oneテーマ21)
 

 

 

 

 

 


 

断捨離は脱皮である

『断捨離できる人』になってから、日々の家事、掃除、雑事をちゃんとやるようになった。


人から見れば当たり前のことでも、できなかった自分を基準にすればこれは快挙である。


今朝もきちんと、食べ終わった食器を洗い、使った鉄鍋の水気を取り、掃き掃除を軽くして、トイレも磨いてきた。


時間にして15分程度だろうか。


ベースが綺麗だと、それにかかる手間も少なくて済む。結果短時間で終わる。


本当なら掃除機をかけたいところだが、箒で掃くという行為が大好きなので、つい掃き掃除ばかりしてしまう。


掃き掃除は、後ろに下がりながらゴミをかき集める。


掃除機や除雪車、道路を掃いていく車。何でもいいんだけど、大抵は前に進むことで綺麗になっていく。


掃き掃除だけが後ろに下がりながら綺麗にしていくのだ。


この控えめ、というか、視点が変わるアクションが、ハイヤーセルフと重なるのである。


一歩引いて自分を眺めるのと同じ感じがして、掃き掃除をした後に軽く瞑想すると本当に気持ちがスッキリするのだ。


そして日々の雑事をきちんとこなしていると、『自分は自分にとって役に立つ人間だ(わかるかなー?)』ということを実感できる。


だから自己肯定感もアップする。


これが同じ掃除でも、やらされ仕事だとこうはいかない。


貧乏クジ引いた!何で俺ばかり!損じゃないか!


と全く価値が反転してしまう。


物事においては、能動的にアクションを取れれば、どんな事もマイナスにはならない。


楽しくするも、やらされ仕事と決めつけるのも、自分の心持ち次第なのだ。


今日家に帰ったら、水切りカゴの中のお皿を拭いて戸棚にしまおう。そして晩ごはんの支度をしよう。


そんな出来事を楽しみにできる心に『いともあっけなく変わった』事実を喜んでいる。


断捨離は何回も脱皮できますよー。


今の自分のまま、お金もかけず、何かを詰め込むこともなく。


オススメです。

 

 

 

断捨離の扉が開いた③

断捨離を始めてから一年半。見事に環境は変わりました。

 

考え方にも大きな変化があり、以前の自分より今の自分のほうが格段に好きになりました。

 

前に書いた断捨離の記事、第3弾。

 

最後まで読んでいただけたら嬉しいです。

 

 

★★★


その後もゆるゆると続けています、断捨離。


こちらの本をきっかけに一念発起。今では見違えるほどモノが減った室内。そして雑念の消えたココロ。


やっぱり巷で言われているように良いことづくめでした。

 

 

 

ぼくたちに、もうモノは必要ない。 - 断捨離からミニマリストへ -

ぼくたちに、もうモノは必要ない。 - 断捨離からミニマリストへ -

 

 

 

前回はこんなトピックについて書きました。


①室内でキビキビ動くようになった。

②モノの定位置が決まった。

③マメに掃除するようになった。

④いま持っているモノの価値が上がった。

⑤質の良いモノに目が向くようになった。


これだけでも十分すぎるんだけど、まだ続きがあります。


断捨離は『環境を整える』ことを第一の目的としますが、この『環境』にはいろんな意味合いがあることがわかりました。


そのことが一番の収穫だったのです。



⑥余計なモノを買わなくなった。

⑤で質の良いものに欲望がスライドしたおかげで、不必要なモノに全く興味がなくなった。それはいとも呆気なく起こり、自分でもビックリしている。

どうしても必要で、この前100均で画材を揃えたんだけど、パレットも水入れも他で代用がきくので買わずにいられた。

そう。モノが減ると、家に何があって何が無いのか頭で覚えていられるから、すぐさま『代用できるものは無いか?』という発想が浮かぶ。

この好循環はずっとループさせたい。

 

 

⑦たくさんのアイデアが浮かぶようになった。

これも⑤⑥の流れを受けている。


質の良いものに興味が移る。

余計なモノを買わなくなる。

いまあるもので代用できないか?と考えるクセがつく。

様々なシーンでそれを思う頻度が上がる。

『組み合わせること』をいつも考えるようになる。

『ピコーン!!』と閃く機会が増える。

イデアが浮かびやすくなる。


そんな感じです(^_^)

 

 

⑧キッチンに立つのが楽しくなる。

これも驚いた事のひとつ。

僕は料理が好きではない。

普段お酒ばかり飲んでいるからグルメだと思われているが、3食同じ献立でも平気なタイプだ。安物でも添加物満載でも気にしない。

大好きな野菜だってスーパーのカット野菜で大満足だったし。

そんな自分が今では嬉々としてキッチンに立っている。

広々とした場所で、調味料も少ないけど一目で見渡せて、手を伸ばせばさっと取れる状態。

料理って同時並行でいろんな事をやるので、何だかスポーツみたいな感じがした。

その一連の動きが淀みなくできた時の気持ち良さ。

もちろん美味しいものを作る、というのが大命題だが、『動きの心地よさ』もおまけでついてきたのだ。

 

 

⑨手間を手間だと思わなくなった。

掃除と同じく、家庭内の全てのアクションの『能率が上がった』のはこのせいだろうな。

そして面倒くさい気持ちが消えたせいで、水出しのハーブティーを毎日飲んでいる。

なくなったらガラス瓶を洗い、新しく仕込む、時には煮出して冷まし冷蔵庫へ。

こんな面倒くさいことも面倒だと思わなくなった。むしろ楽しんでやっているのだ。

ペットボトルを買うこともほぼ無い。ゴミも減ってエコな感じ。

味噌が減ったらタッパーに詰め替える。冷蔵庫の中もシンプルになって気持ちいい。タッパーはほぼ捨てたけど、一個だけ残ってる。いずれ野田琺瑯あたりを揃えたい。

 

 

⑩『今ここ』に集中できるようになった。

食事の時は食べることに

掃除の時は片付けることに

話すときは会話に


という感じで、『ワンタスクを味わう』クセがついた。

とりわけ、恋人と部屋で食事したり、そのための料理を作ることが、今までとは比較ならないほど楽しくなった。

一つのことに集中できるのは、視界からモノが減ったからに他ならない。

モノがあふれていると、意識的・無意識的を問わず、視覚情報がノイズにまみれる。

こんなこと気づきもしなかった。でもきっとそう。

だから脳のバッファとかメモリが、パソコンのそれと同じく容量を食ってしまい、現在に集中できなかったのではないか?

そのせいで意識は散漫になり、家が落ち着かない場所と化す。

だから休みの日でも常に外に出たかったのだろう。特に明確な目的がなくともとりあえず出ることに意味があったのだ。

 

カラクリはこれだったんだね。

 

そして今に集中し、楽しい時間を過ごせるようになると、『相手の意見を素直に受け入れるようになる』気がする。メモリの負担が軽くなった分、心に余裕が生まれたのだろう。これはまだ未確定だけど、確信に近づいている。

 

 

僕のパートナーは食に対して大きなこだわりがある。オーガニック中心の食事を小さい頃からしている。

家には電子レンジはない。炊飯器も使わず、米は鍋で炊く。添加物や保存料の類は基本アウト。食品を買うときには必ず製造欄をチェック、という塩梅だ。

 

最初の頃はそれが嫌だった。

 

『もうそんなのいいじゃん、どっちも同じなんだから安いほうでいいよ。その分美味しいワイン飲めばOKでしょ?』

そんな感じで無理やり体に悪いモノを摂取『させていた』と思う。

もちろん時々は任せていたけれど、基本僕は面倒くさがり、吟味することは敵だったのだ。潔癖症と混同していたのだろうな。

 

それが見事に変化した。

相手の欲求をなぞってみたくなったのだ。

 

そして初めて様々なオーガニックを味わうことになった。

その結果はどうだ?

米は鍋で炊くようになり、食品を買うときは裏の標示を見て、なるべく添加物の少ないものを買うようになった。

有機野菜の味を知り、素材の良し悪しが少しはわかるようになったし、調味料の違いで料理の味が天国と地獄に分かれることも知った。そして薄味の美味しさも判別できるようになった。

つまりは、自分は『刷新』されたのだと言っても過言ではない。

そしてそれは『悟った』とか『欲望が消えた』とか『萎えた?』なんていうネガティヴなものではない。

むしろ、自分を知ることの確実な手助けになっている。

事実、断捨離をしていたこのひと月、自分のことについて考えることが多かった。そして自分のもつ『考え方のクセ』の中でも不要なものを、断捨離のゴミと一緒に捨てることができたのだから。



 

とりあえずザーッと書いてはみたものの、まだまだ書ききれていない。


言葉にはならない気持ちが、まだ眠っている。


それはまた今後、新しい発見となって表面化してくるのだろう。


これからは断捨離の第2期に入る。


細かいものをひとつづつ見て、いよいよ捨てていくのだ。


書類や写真、過去の蓄積のあれこれ。


思い出の品もあるだろう。


若い時分のエネルギーを再確認できるアイテムもあるかもしれない。


しかし人生は続くのだ。


過去は力に変えて、常にいまここのスタートに立ちたいという思いがある。


そのためにもこの断捨離を続けていこうと思います。


とにかく一冊の本がきっかけとなってここまでこれた。


本当にありがたいことです。


そして拙い文章を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


少しでも興味がわいたら、ぜひ実践してみて下さいね。


新しい扉が開くことを身をもって知ったので、自信たっぷりに言えます。


『断捨離は人生を変える!!』とね。