うまくいかないのはあくまで一時的なもの

普段は別に普通だったじゃん。ここ最近のことを自分の全体に当てはめちゃダメだと思うよ。

(舞城王太郎『やさしナリン』)

 

小さな事から大きなものまで、人生には山も谷もあり、誰もがそのアップダウンに四苦八苦している。

 

ずっとうまく行けばいいのになと思えど、決してそんなことはなく、気づけばまた山の上か谷底に自分の姿を見ることになる。

 

相談にのっていてよくあるのが、一時的な谷に全てを持っていかれるパターンだ。

 

『過去にも似たようなことがあったけど、何とか抜け出せたじゃん?』と事実を伝えても無駄なことが多い。

 

『でもダメ今回は、どうにもならない、やっぱり私なんてこういう運命なんだわ!』とマイナス方向に反論してくる。その勢いと比喩の豊かさに驚くばかりだ。よくもここまで自分をこき下ろすことができるなと感心する。

 

時期的な浮き沈みは誰にもあるが、それは文字通り『一時的』であることがその当事者には想像できない。

 

『やっぱり自分には不幸しかないんだ!』という圧倒的な宣言は、ダメで当然という安心感を生み出すからだ。

 

うまくいかない時は、なるべく自分を客観的に見ることが大事。

 

ましてやそのうまくいってない自分が本来の自分だなんて思う必要は全くない。

 

辛い中で自分を客観的に見ることは難しいけれど、自分にとっての良いことばかりを想像すると早く抜け出せます。

 

あくまで『一時的』。それを忘れないようにしましょうね。

 

 

 

キミトピア

キミトピア

 

 

好き好き大好き超愛してる。 (講談社文庫)

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淵の王

淵の王

 

 

 

気持ちをこめる

『いってらっしゃい』という言葉には、本来『気をつけて行って、戻ってらっしゃいね』という気持ちがこもっていますね。

気が通った状態で声をかければ、子どもの潜在意識にも『行って、帰ってくる』という気持ちが入るんです。

ところが気を通わせずに、ただ『行きなさい』『出かけなさい』という言葉として発してしまうとマイナスの言葉になるんです。

(藤平信一『無意識の整え方』より)

 

普段、何気なく口にしている言葉。

 

言葉を発するとき、自分はどれだけの気持ちをこめてそれを言っているのだろう。

 

あらゆるシチュエーションにおいて、それはただ空気の振動が音声となり相手に届いているだけ、ということも多いはずだ。

 

軽く、適当に、流すような感じで、時には相手の顔すら見ず、ながらで発した言葉はどんな印象を相手に植えつけるのだろう。

 

表情、仕草、言葉使いなどが醸し出す、その人の雰囲気。

 

きちんと気持ちをこめる。それがちゃんと相手に向いている。

 

こんな基本的なことを忘れていたなと再確認しました。

 

本書は無意識にまつわる対談集ですが、かなり応用範囲が広い対話が繰り広げられています。

 

折にふれて読み直したい一冊でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

同じ物語を繰り返さないために

『こんな人とつきあっていても何も変わらない』と次々に友だちや恋人を変えても、あなたが変わっていなければ、登場人物が違うだけで、ふたたび同じ物語が繰り返される。

(松浦弥太郎『しあわせを生む小さな種』)

 

変わるこことってむずかしい。

 

長年の習慣、もともともっている気質、生きているうちに作り上げられていく性格…

 

それらをバシっと捨て去って、真っさらな自分に即日変わることなんてできやしない。

 

人を含めた環境の変化が、自分を変えるための近道だと言われる。新しい習慣へのスタートラインだと。僕もそう思う。

 

しかし松浦の言葉にあるように、自分が変わっていかなければ、せっかく環境を変えても物語の骨格は同じだ。

 

今までの不甲斐なさをどう変えていくのか、不幸な生い立ちからどう脱却するのか、不満足な現状をどう好転させるのか…

 

環境の変化に依存して、自ら変化することを蔑ろにしてはならないのだ。

 

確かに登場人物が変わると、物語は目新しく映る。期待値は上がり、何かいいことがあるんじゃないかと想像したりもする。それ自体はとても良いことだ。

 

しかし、自分はどう変わりたいのか、そのために何をするのか、という新しい視点がないと、物語はループする。変わってない自分ができることなんてたかが知れている。狭い範囲で、かつて体験したことと同じような道を、無意識は差し示すからだ。

 

変わりたいけど変われない。でも変わるしかない。

 

勇気をもって飛び出して初めて、新しい物語が展開されていくのだろう。

 

いつでもスタートは切れる。諦めずに一歩を踏み出そう。変化は敵ではなく、あなたの友人になり得るのだから。

 

 

しあわせを生む小さな種 今日のベリーグッド

しあわせを生む小さな種 今日のベリーグッド

 

 

 

積み減らすということ

『すべてを失ってはじめて、やりたいことをする自由を手に入れられる。』タイラー・ダーデンファイト・クラブ


『自分に何も欠けてないと知ったとき、世界はあなたとひとつになる。』(老子

 

断捨離をしてから、上の二つの言葉が身にしみてわかるようになった。


今では広告に踊らされることなく『自分に必要なモノを自分で選び』、不要なモノはどんどん処分できているからだ。


生まれてから一定の時期は、ひたすらに『積み重ねる』ことで生きていける。


モノも知識も体験も、次々と自分の内に引き入れて咀嚼し血肉化していくこと。それが人生の主流だ。


しかし40を過ぎて、ある程度の体験を重ね、必要なモノや思考を手に入れた後に思うのは、『欲望には限りがないこと』である。


エンドレス、ひたすら上昇、どんどん詰め込め。限りがないとはこういうことだ。


肉体に限界がある以上、欲望の増殖するサイクルこそに無理がある。


みなそれに気づいていながらも、欲望をコントロールできないでいる。


年齢を重ねて老いていくシルエットは、シンプルでかつスタイリッシュでいたい。


だからこそ今までの人生で『積み重ねて』きたことを今度は『積み減らして』いく必要がある。


『積み減らす』とはおかしな言葉だが、そんな人生の岐路をうまく言い現わしているなと思う。岡本太郎の言葉だ。


積んでは減らす。減らしてはまた積む。その繰り返し。


これこそが人生そのものだ。


欲望が増殖する時には、『ひたすら積む』ことにフォーカスがあたっている。


そして時々、『増えすぎたからちょっと減らそうかなぁ…』と思うくらい。


『積み減らす』はそうではない。『積む』と『減らす』が同じ割合で拮抗している。


ひとつ積んだらひとつ減らす。これをルールとしている。


だから余計に積み重なることがない。


断捨離はリセットである。


本当に必要な環境を整え、今までの自分が獲得した『ポテンシャル』を100%発揮するための儀式といってもいい。


そんな儀式をクリアしたいま、毎日が清々しい。


そして本当に自分が欲望していることは何か?もはっきりしてくる。


特に時間の使い方が変わった。『精神の不必要な寄り道』をしなくなった。


今の僕に必要なのは2点のみ。


ひとつは恋人との時間を大切にすること。


もうひとつは、悩み困っている人がいたら手を差し伸べること。


なんてシンプルなんだろう。


自分の人生に手をこまねいている方は、ぜひ断捨離してみてください。


自分の『端切れ』を一掃することで見えてくる景色は本当に素晴らしいですから。

 

強く生きる言葉

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壁を破る言葉

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自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間

自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間"を捨てられるか (青春文庫)

 
愛する言葉

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青春ピカソ (新潮文庫)

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美しく怒れ (角川oneテーマ21)
 

 

 

 

 

 


 

断捨離は脱皮である

『断捨離できる人』になってから、日々の家事、掃除、雑事をちゃんとやるようになった。


人から見れば当たり前のことでも、できなかった自分を基準にすればこれは快挙である。


今朝もきちんと、食べ終わった食器を洗い、使った鉄鍋の水気を取り、掃き掃除を軽くして、トイレも磨いてきた。


時間にして15分程度だろうか。


ベースが綺麗だと、それにかかる手間も少なくて済む。結果短時間で終わる。


本当なら掃除機をかけたいところだが、箒で掃くという行為が大好きなので、つい掃き掃除ばかりしてしまう。


掃き掃除は、後ろに下がりながらゴミをかき集める。


掃除機や除雪車、道路を掃いていく車。何でもいいんだけど、大抵は前に進むことで綺麗になっていく。


掃き掃除だけが後ろに下がりながら綺麗にしていくのだ。


この控えめ、というか、視点が変わるアクションが、ハイヤーセルフと重なるのである。


一歩引いて自分を眺めるのと同じ感じがして、掃き掃除をした後に軽く瞑想すると本当に気持ちがスッキリするのだ。


そして日々の雑事をきちんとこなしていると、『自分は自分にとって役に立つ人間だ(わかるかなー?)』ということを実感できる。


だから自己肯定感もアップする。


これが同じ掃除でも、やらされ仕事だとこうはいかない。


貧乏クジ引いた!何で俺ばかり!損じゃないか!


と全く価値が反転してしまう。


物事においては、能動的にアクションを取れれば、どんな事もマイナスにはならない。


楽しくするも、やらされ仕事と決めつけるのも、自分の心持ち次第なのだ。


今日家に帰ったら、水切りカゴの中のお皿を拭いて戸棚にしまおう。そして晩ごはんの支度をしよう。


そんな出来事を楽しみにできる心に『いともあっけなく変わった』事実を喜んでいる。


断捨離は何回も脱皮できますよー。


今の自分のまま、お金もかけず、何かを詰め込むこともなく。


オススメです。

 

 

 

断捨離の扉が開いた③

断捨離を始めてから一年半。見事に環境は変わりました。

 

考え方にも大きな変化があり、以前の自分より今の自分のほうが格段に好きになりました。

 

前に書いた断捨離の記事、第3弾。

 

最後まで読んでいただけたら嬉しいです。

 

 

★★★


その後もゆるゆると続けています、断捨離。


こちらの本をきっかけに一念発起。今では見違えるほどモノが減った室内。そして雑念の消えたココロ。


やっぱり巷で言われているように良いことづくめでした。

 

 

 

ぼくたちに、もうモノは必要ない。 - 断捨離からミニマリストへ -

ぼくたちに、もうモノは必要ない。 - 断捨離からミニマリストへ -

 

 

 

前回はこんなトピックについて書きました。


①室内でキビキビ動くようになった。

②モノの定位置が決まった。

③マメに掃除するようになった。

④いま持っているモノの価値が上がった。

⑤質の良いモノに目が向くようになった。


これだけでも十分すぎるんだけど、まだ続きがあります。


断捨離は『環境を整える』ことを第一の目的としますが、この『環境』にはいろんな意味合いがあることがわかりました。


そのことが一番の収穫だったのです。



⑥余計なモノを買わなくなった。

⑤で質の良いものに欲望がスライドしたおかげで、不必要なモノに全く興味がなくなった。それはいとも呆気なく起こり、自分でもビックリしている。

どうしても必要で、この前100均で画材を揃えたんだけど、パレットも水入れも他で代用がきくので買わずにいられた。

そう。モノが減ると、家に何があって何が無いのか頭で覚えていられるから、すぐさま『代用できるものは無いか?』という発想が浮かぶ。

この好循環はずっとループさせたい。

 

 

⑦たくさんのアイデアが浮かぶようになった。

これも⑤⑥の流れを受けている。


質の良いものに興味が移る。

余計なモノを買わなくなる。

いまあるもので代用できないか?と考えるクセがつく。

様々なシーンでそれを思う頻度が上がる。

『組み合わせること』をいつも考えるようになる。

『ピコーン!!』と閃く機会が増える。

イデアが浮かびやすくなる。


そんな感じです(^_^)

 

 

⑧キッチンに立つのが楽しくなる。

これも驚いた事のひとつ。

僕は料理が好きではない。

普段お酒ばかり飲んでいるからグルメだと思われているが、3食同じ献立でも平気なタイプだ。安物でも添加物満載でも気にしない。

大好きな野菜だってスーパーのカット野菜で大満足だったし。

そんな自分が今では嬉々としてキッチンに立っている。

広々とした場所で、調味料も少ないけど一目で見渡せて、手を伸ばせばさっと取れる状態。

料理って同時並行でいろんな事をやるので、何だかスポーツみたいな感じがした。

その一連の動きが淀みなくできた時の気持ち良さ。

もちろん美味しいものを作る、というのが大命題だが、『動きの心地よさ』もおまけでついてきたのだ。

 

 

⑨手間を手間だと思わなくなった。

掃除と同じく、家庭内の全てのアクションの『能率が上がった』のはこのせいだろうな。

そして面倒くさい気持ちが消えたせいで、水出しのハーブティーを毎日飲んでいる。

なくなったらガラス瓶を洗い、新しく仕込む、時には煮出して冷まし冷蔵庫へ。

こんな面倒くさいことも面倒だと思わなくなった。むしろ楽しんでやっているのだ。

ペットボトルを買うこともほぼ無い。ゴミも減ってエコな感じ。

味噌が減ったらタッパーに詰め替える。冷蔵庫の中もシンプルになって気持ちいい。タッパーはほぼ捨てたけど、一個だけ残ってる。いずれ野田琺瑯あたりを揃えたい。

 

 

⑩『今ここ』に集中できるようになった。

食事の時は食べることに

掃除の時は片付けることに

話すときは会話に


という感じで、『ワンタスクを味わう』クセがついた。

とりわけ、恋人と部屋で食事したり、そのための料理を作ることが、今までとは比較ならないほど楽しくなった。

一つのことに集中できるのは、視界からモノが減ったからに他ならない。

モノがあふれていると、意識的・無意識的を問わず、視覚情報がノイズにまみれる。

こんなこと気づきもしなかった。でもきっとそう。

だから脳のバッファとかメモリが、パソコンのそれと同じく容量を食ってしまい、現在に集中できなかったのではないか?

そのせいで意識は散漫になり、家が落ち着かない場所と化す。

だから休みの日でも常に外に出たかったのだろう。特に明確な目的がなくともとりあえず出ることに意味があったのだ。

 

カラクリはこれだったんだね。

 

そして今に集中し、楽しい時間を過ごせるようになると、『相手の意見を素直に受け入れるようになる』気がする。メモリの負担が軽くなった分、心に余裕が生まれたのだろう。これはまだ未確定だけど、確信に近づいている。

 

 

僕のパートナーは食に対して大きなこだわりがある。オーガニック中心の食事を小さい頃からしている。

家には電子レンジはない。炊飯器も使わず、米は鍋で炊く。添加物や保存料の類は基本アウト。食品を買うときには必ず製造欄をチェック、という塩梅だ。

 

最初の頃はそれが嫌だった。

 

『もうそんなのいいじゃん、どっちも同じなんだから安いほうでいいよ。その分美味しいワイン飲めばOKでしょ?』

そんな感じで無理やり体に悪いモノを摂取『させていた』と思う。

もちろん時々は任せていたけれど、基本僕は面倒くさがり、吟味することは敵だったのだ。潔癖症と混同していたのだろうな。

 

それが見事に変化した。

相手の欲求をなぞってみたくなったのだ。

 

そして初めて様々なオーガニックを味わうことになった。

その結果はどうだ?

米は鍋で炊くようになり、食品を買うときは裏の標示を見て、なるべく添加物の少ないものを買うようになった。

有機野菜の味を知り、素材の良し悪しが少しはわかるようになったし、調味料の違いで料理の味が天国と地獄に分かれることも知った。そして薄味の美味しさも判別できるようになった。

つまりは、自分は『刷新』されたのだと言っても過言ではない。

そしてそれは『悟った』とか『欲望が消えた』とか『萎えた?』なんていうネガティヴなものではない。

むしろ、自分を知ることの確実な手助けになっている。

事実、断捨離をしていたこのひと月、自分のことについて考えることが多かった。そして自分のもつ『考え方のクセ』の中でも不要なものを、断捨離のゴミと一緒に捨てることができたのだから。



 

とりあえずザーッと書いてはみたものの、まだまだ書ききれていない。


言葉にはならない気持ちが、まだ眠っている。


それはまた今後、新しい発見となって表面化してくるのだろう。


これからは断捨離の第2期に入る。


細かいものをひとつづつ見て、いよいよ捨てていくのだ。


書類や写真、過去の蓄積のあれこれ。


思い出の品もあるだろう。


若い時分のエネルギーを再確認できるアイテムもあるかもしれない。


しかし人生は続くのだ。


過去は力に変えて、常にいまここのスタートに立ちたいという思いがある。


そのためにもこの断捨離を続けていこうと思います。


とにかく一冊の本がきっかけとなってここまでこれた。


本当にありがたいことです。


そして拙い文章を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


少しでも興味がわいたら、ぜひ実践してみて下さいね。


新しい扉が開くことを身をもって知ったので、自信たっぷりに言えます。


『断捨離は人生を変える!!』とね。

 

断捨離の扉が開いた②

前に別ブログに書いた断捨離の記事、第2弾です。

 

読み直すと相当テンション上がってるのがわかりますね。

 

断捨離で人生が変わるのは本当でした。この本にもう感謝しかないです。

 

 

★★★


断捨離ブーム、続いております。


前回はきっかけになった本の紹介がメインでしたが、今回は断捨離によって自分に起きた変化を書いていきますね。

 

①室内でキビキビ動くようになった。

床に広がっていたモノがなくなることによって、道幅が広がった。何かを避けて歩くことがこんなに行動の妨げになっていたとは…

妨害がなくなれば、自然なペースで歩き回れる。そんなに広い部屋ではないが、この開放感は大きく、ちょこちょこ動くことが億劫ではなくなった。

 

 

②モノの定位置が決まった。

モノが溢れている状態はすなわち、住所不定のモノたちが室内にひしめき合っているということだ。

あるジーンズ、本当の住所はクローゼットの中だが、仕事から帰ってきた僕の気分で、それは床に履き捨てられる。目の前の家に入れてもらえない。そんなモノがたくさんあった。

しかし今では違う。そのジーンズはここ2週間毎日家に帰れている。

鞄もそう。朝バタバタと中身を入れ替えて放置されることもなく、帰宅後に一度、定位置に戻される。

あと数名、住所不定のモノがいるが、彼らには引っ越してもらうか(捨てるか)きちんと部屋を探してあげようと思っている。

 

 

③マメに掃除するようになった。

1.2に関連して、掃除の頻度が格段に増えた。食べ終わった食器もその場で洗い、水切りカゴという急場しのぎの「定位置」に一旦預けている。

毎回定位置にモノを戻すということは、同じ場所を見る頻度が上がることだ。

そうすると、「すこし埃が溜まってるな」とか「何かこぼした跡があるぞ」なんてことに気づきやすくなる。

そしてキビキビ動く癖ができているので、必要な道具を取ってきてササッと片づけてしまう。

このスッキリ感がもたらす恩恵は計り知れない。こうなる以前にストレスを感じていたわけではないが、一度このスッキリ感を味わうともう元には戻れない。

 

 

④いま持っているモノの価値が上がった。

モノを一通り捨てて思ったことは、残った精鋭たちが、いままでとは比較できないほど輝き始めたということだ。

普通はその価値は購入後から目減りしていく。前回書いたように「慣れ」が作用するからだ。

しかしみんな見事に復活した。まるでクルム伊達公子みたいに爽やかな笑顔とともに。

たくさんの中にいるモノたちは、当時はみな一番だったはずだ。「このシャツを着た俺はさぞ男前に映るだろうよ!」と思って買ったシャツ。

それに慣れて次は、「この新しいシャツを着た俺はさぞダンディで優しく見えるだろうよ!」と思ってまた買う。

そうやって、「もともとの用途は違う」のに、「俺を魅力的に見せるアイテム」として十把一絡げにされてしまう。

そしてその中で優先順位が決まってしまうので、価値が変換されてしまう。

クラスの中にも、体育系のイケメン、文学系のイケメン、優しいイケメン、頭の回転が速いイケメン、リーダーシップが魅力的なイケメン…と別れている。

その中で一番を決めることに意味はない。

全ては自分の気持ち次第なのだ。

だからモノが減った後、またそれぞれの役割を思い出したのである。

それが新しい輝きをモノに与え直した。

不思議だな。人間のこの感情の身勝手さ。それをひしひしと感じている。

 

 

⑤質の良いモノに目が向くようになった。

残った精鋭たちではあるが、質はバラバラである。安いモノ、高いもの、有名無名、いろいろ混ざっている。

その中でも、質が悪く値段も安いモノを排除して、新しく上質なモノが欲しいと思うようになった。

しかしあれもこれも、というよりは、「上質なモノがひとつあればそれでいい」という感覚。

主にキッチン用品が多い。

100均に代表される「プラスチック製品」に違和感を覚えることが多く、少しづつ入れ替えている。

例えば、今まで砂糖と塩を入れていたのは100均のプラスチックBOXだ。仕切りで別れていて、蓋は固定されているので親指でヒョイっと持ち上げるタイプ。

それを別々の陶器に変えた。蓋は固定ではないから、塩を振る時には左手で蓋を持っている必要がある。

しかしそれが億劫ではなく、その陶器の佇まいとか雰囲気のほうを優先できている。そして使う時にちょっとだけ「気分が上がる」のだ。

日常を豊かに過ごすためには、この「ちょっとだけいい気分になる」頻度が重要だ。

まだスタートしたばっかりだが、「モノを吟味する喜び」を与えられた。これはすごく豊かな感情である。

何となく選ぶのではなく吟味する。この行動自体が人生に及ぼす影響は大きい。

それを身をもってて体験している。

 

長くなったのでいったんここまでで。


まだまだ続きますよー。そのぐらいインパクトがあった出来事だったのです。

 

 

 

ぼくたちに、もうモノは必要ない。 - 断捨離からミニマリストへ -

ぼくたちに、もうモノは必要ない。 - 断捨離からミニマリストへ -

 

 

 

 

 

あるミニマリストの物語―僕が余分なものを捨て人生を取り戻すまで

あるミニマリストの物語―僕が余分なものを捨て人生を取り戻すまで

  • 作者: ジョシュア・フィールズ・ミルバーン,ライアン・ニコデマス,Joshua Fields Millburn,Ryan Nicodemus,吉田俊太郎
  • 出版社/メーカー: フィルムアート社
  • 発売日: 2016/04/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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